炭、自然に対する想い

群馬県渋川市、周りを緑豊かな森林で囲まれた、畜産農家の二女として生まれた私は、小さい頃 から動物や自然と親しむ暮らしをしていた。祖母や祖父からは、物を大切にすること、物には魂 があって大切に使うということを自然と学んだ。遊び場は、家の裏にある小さな小川。秘密の場 所。夏休みにはお菓子を持って、水遊びをした。大人は誰も知らない、子どもだけの楽園。 多 くの恵みを自然から感じた。それが当たり前だった。
小4の春。家の裏山に娯楽施設が建設されることになった。チェーンソーのけたたましい音が、 静かな楽園に響き渡る。倒れていく木を、涙を流しながら一人ベランダからただ見ていた。祈る ことしかできなかった。同時期に、近所にクリーニング屋が出来た。すると下水がそのまま私たちの楽園の秘密の場所にまで流れてきた。湯気が立ちのぼる白い液体が、小川全体を飲み込むさ まを、ただ見ていることしかできなかった。 食事中、ナスが油を吸うのを見て藁をもすがる思 いでナスを川に投げたこともあった。だが、無駄だった。内気であまり外の世界を知らない私 にとって、どちらの事件も衝撃が大きかった。そしてそのことがきっかけで環境問題の本を図書 館で読みあさるようになった。その頃、環境保護団体の WWF に所属し、自分を慰め、中学生になるころ、地元の“森林の会”という活動に巡り合うことになる。
当時、酸性雨による木の立ち枯れの問題が一部で叫ばれていた。“森林の会”では、酸性化した土 壌に炭を撒く活動を行っていた。弱アルカリ性の炭多孔質の炭は、土壌を中和し、保水性を高め、炭のたくさんの穴に微生物が入り、生き物の喜びの共生が始まる。木が、森がどんどん元気にな る。この頃は、難しいことはわからなかったが、炭が森を元気にしてくれるという実感を身体で感じることができた。
大学では、炭焼き教室に何度か参加をしてみたり、炭の吸着実験をやらせてもらった。しかし大 人になるにつれて、炭への情熱は、いつしか消え、時代は変わり、社会に出て普通に仕事をし、結婚、出産をし、平凡な暮らしをする毎日へ。そんな中、魂をゆさぶる大きな転機が起こった。まだ記憶に新しい 3.11 だ。記憶という言い方は語弊がある。 なんともいえない恐怖。そして、当たり前にあるものは、当たり前ではないということを、痛感した。私にとっては小さい頃の 経験が自分の身体、細胞を作り上げてくれたという思いが強い。『自然が母親』というキーワードがしっくりくる。失いたくない。これからも自然が母親であり続けてほしい。 子どもを授かっ たこともとても大きく、この子たちが大きくなったときの、この世界はどんな空だろう、美味しいお米に美味しい空気はあるのだろうか、と本気で思うようになった。「自然が母親」を自分の子どもたちにも当たり前に感じてほしい。今の自然と触れ合う機会が少ない子どもたちに、自然と触れ合う機会をたくさん作りたい。 それと同時に、自分の分身とも言える、炭に対する想い、炭を通して地球をよりきれいにするプロジェクトを立ち上げたいと思った。私の想いは、自然が母親。これからも100年先の子どもたちに、笑顔で地球を、自然を感じてほしい。

コラム

群馬県前橋・森林管理局「森林の会」事務局長の宮下正次さんとの出会い。 ‐前橋市の松と足尾銅山、再生への取り組み‐
数年前病気のためこの世を去った宮下正次さん。 宮下さんとの出会いこそ、私と炭との出会い そのものだった。
群馬県前橋市の松林。以前はマツタケが採れるほど元気だったが、○○の頃には立ち枯れが目 立つようになった。弱った松に元気を取り戻そうと、「炭まつり」が行われた。「炭まつり」とは、 枯れかかった松の根元に炭を敷き込むこと。1 本の松に 1 キロほどの炭を埋める。炭を埋めた松 の木の根は、植物と共生する菌で真っ白に覆われ、菌と共生することで松そのものが元気になる。 また炭には木の生長に必要なミネラルがバランスよく含まれているので木はゆっくりと元気を
取り戻していく。(引用 炭は地球を救う)←不要? 私が高校生の頃には、松は見事に再生した。 高校時代陸上競技部で中距離走者だった私。炭まつりがおこなわれた敷島公園は、陸上部の大会 が行われていた場所だった。敷島公園の元気な松の間を仲間とジョギングした光景。一生忘れる ことはない。
!栃木県の足尾銅山は、1883年には銅の生産量が日本一に達し、西洋技術を取り入れた本格 的な電気精銅に入った。それまでは有害ガスを排出しない木炭を使った精錬が行われていたが、 電気精銅に伴い、石炭を使うようになると、有毒な硫黄酸化物が多く輩出されるようになった。 これが有名な足尾銅山鉱毒事件を引き起こし、さらに、排煙の中の亜硝酸ガスが大気中で水分に 溶けて酸性雨を降らせ、それまで緑で覆われていた赤倉山、大平山、備前楯山の木々は枯れ、土 壌は酸性化して多くの有効な微生物が絶滅し、死の山と化してしまったのだ。その後不毛の地で あった足尾銅山に、杉浦銀治氏らによって「緑でよみがえらそう」プロジェクトが始まった。そ の第一歩として足尾を流れる渡良瀬川源流域の松の木の根元に炭を入れた。弱りかけた松の木の まわりに円を描くように深さ?センチの溝を掘り、1 本当り10キロの炭を入れる。1 年後には 松の木の葉が濃くなり、さらに先端部の生長が著しくなったのだ。これは炭が酸性の土壌を中和 し、炭の中の多くのミネラルを松の根に供給し松が元気になったため。また、細孔(炭の中の無 数の小さな穴)が有用な微生物の棲み処になるため根っこが元気になるのである。(引用 究極 の炭健康法) 宮下さんらとバスに乗り、足尾銅山に行ったころは、まだ再生途中であった山は 茶色かったことしか覚えていない。
宮下正次氏・著書 「炭は地球を救う(リベルタ出版)」「消える森甦る森ーめざせ緑の防人地球大作戦(東洋書店)」 「立ち枯れる山(新日本出版社)」「野にも山にも炭を撒く 炭の力で緑の地球に(五月書房)」な ど多数。

 

 

炭座という名前の由来

座という意味

座には一つの目的で集まっている場所。という意味もあります。まさに
炭をテーマに仲間と語り合い、炭のことをより深く味わう機会を
作りたい。そんな意味が込められています。

炭座という意味

鎌倉時代から室町時代に、日本各地の市場に七つの座が設けられました。
絹座・炭座・米座・檜物座(ひものざ)・千朶積座(せんだづみざ)・相物座(あいものざ)・馬商座(ばしょうざ)の七つの座
そのうちの一つが炭座だったのです。昔から人の生活に炭が使われていたことがうかがえます。
有名な楽市楽座は、その後 織田信長によって七座は廃止され、新興商人も自由に営業ができるようになったという歴史があります。